昭和45年8月30日特別奉修委員に対する親先生の御教話。                                                                                              「今月今日で一心にたのめい。おかげは和賀心にあり。」今月今日で一心にたのめい。 それを、和賀心で頼むと言う事がありがたい、それが、あぁ社会の事であり世のお役に立つ事であると言うような事につながって行くおかげを、おぉ受けていくという事。
今朝からの御理解を頂いて、えー例えば、世のお役に立つと言ったとうな事の本当の意味で、えー人が助かると言ったような事。これはもう「鬼に金棒」と言うて
力を頂き、やはり「鬼に金棒」的なおかげを頂かなければ、本当の助かりにはならない。と言ったような事を頂いたんですけど。今私が言っておるのは、あのーそうではなくて 信心者として、当然の事としてそれが、あー本当にささやかな事ではあるけれども
お役に立っていけておると言うようなね、これは自分の感じがそうすると、今私(ゴホッ)はたのさんの今朝からのお届けを聞かせてもらいよって、急にそう思ったんですけどね。今の現、御広前金光様も、あのー、自分の前の、家の前をあのきれいに掃わく清めると言う事がね、世界のお清めにつながると言ったような風におっしゃっておられますけど、それでもやっぱり、あーそう言う意味だと思うんですけどね。えー今月今日一心に頼む事の中にですね、えー和賀心と言う、いわいる和らぎ喜ぶ心で、その世の清まりの事を
願わしてもらう、世の難儀な事を願わしてもらうという
和賀心でそれが、願えれるという事なんですよね。あのーこれも毎朝の事らしいですけれども、(やちよ?)さん所からバスの停留場までくる、警察の前って言われるが大変広い道路だそうです。まだ暗い中を自動車も通らない、人も通らない、それこそ人影一つ無い中を、歩かせて頂きながら、もう本当にもう最近はもうきつうして、きつうして(きつくて)もう本当に死ぬとやなかろうかっち言うほどきついて、けれども、本当にお礼を申させて頂いて、休ませて頂いておると、朝は目覚ましのおかげを頂く時には、本当に死人が蘇ったような、あぁ生き生きしたものを頂いて朝参りが出切ると言うておられますが、
そう言う喜びがね、そう言う喜びが広~い道を歩かせて頂きながら、しかもこれが日中になるとまたどれだけ沢山の自動車が、通るやら分からないその通りをね、あのーもう本当に、いわいる和賀心。ね。和らぎ喜ぶ、本当に今日もまたお生かしのおかげを頂いておるとその喜びいっぱいの心でです。その広い道を、大祓いを上げながら祈り祈り、大祓いの(いうなら?)内容の中には今日一日ここにどれだけ沢山の人が車が通るか分からないがどうぞ無事息災を祈り、願われながら、合楽に向こうて来られると言う事なんですよね。私はそう言う事がね、私はあの和賀心で私は、社会を清めていく、世のお役に立って行くささやかな事ながらね、私はそれがお役に立って行く事だと、それがよしお役に立って行かないに致しましてもね、自分自身の心がありがたいですね。それが願っていけれると言う事。私はそれを本当に、はぁーこういう手近な所に、世のお役に立っていけれると言う信心が行き届いて、御道流の信心が生き生きとね、えー、まぁ輝くように、えー感じられるんだなと、ね。ただ合楽に向かってくるというだけでもですね。
あのーそういう、あのー行き届いた生き方その基にはですたい。今日もまたお生かしのおかげを頂いておった。朝になるとまたこのように生き生きとして、それこそ蘇るとは、 このような事であろうかと思わせて頂けるおかげがあってからの事なのですよね、どうぞ。                                                                           けんいち